母の罵倒、同級生の嘲り…受験失敗で万事休す

2016年08月26日
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 「大きな世界へ行く」と空の星に誓った8歳以降、私は真剣に勉強に励みました。家にいる間は目いっぱい家事を課され、復習や宿題などする時間がないとわかっていたので、学ぶ項目は授業中に暗記してしまうよう努めました。実際それができたため、先生が1つのことを教えている間、3つ、4つのことを理解できました。
 
 小学校を卒業し、地元の中学に進学しました。自宅から30分くらい歩いたところにある、田舎の中学校です。
 
 私は暗記力がとてもよい生徒でした。物理や化学の科目では、興味があったこともあって、長い方程式もすっと頭に入ります。方程式を当てはめれば、一見難しい応用問題も確実に解けました。テストを受ければ、だれも解けない問題を何百人いるなかで解答できたのは「馬英華ただ一人」ということもしばしばありました。
 
 国語の授業では唐詩など古典を習いました。先生が長い詩を板書し、2回くらいみんなをリードして読む。その後「できる人、手上げて。暗唱できたら家に帰ってよろしい」と言います。一クラス、60~70人くらいの生徒が、私が手を上げるのを待っているとわかります。私はいつも集中していましたし、長い詩もなぜか数度読めば暗記できました。
 
 「はい」と手を上げて、暗唱します。みんな耳をそばだてて静かに聴いています。長いので、間違えるかどうか待っているのです。終わると先生に「素晴らしい。帰っていいよ」と言われるのが常でした。うれしい気持ちになり、みんなからうらやましそうな視線を浴びて帰ります。
 

■仲間はずれのいじめで孤立

 
 一緒に入学した同級生に近所の子たちが多くいました。30分の通学路は意外に長いものです。私たちはいくつかのグループに分かれて登下校していました。私は時折、同じ学校に通っていた、いとこと一緒に歩くことがありました。
 
 学校から帰ると、同級生たちは4~5人になって近所で遊んでいました。一方、小学生のときから、私は彼女たちと遊べませんでした。登校する前、下校後、母に言いつけられていた家事をしなければならず、遊びに行くのはおろか、おしゃべりする時間すらなかったのです。
 
 中学校で、ほどなく私は浮くようになりました。理由は、ずば抜けて成績が良かったのが一つ。中国では試験の結果は学内にすべて貼り出されます。私は常にクラス1、2を争う位置にいました。そしてもう一つ、家では、私が母から大きな声で怒られる様子を開け放した窓から同級生たちが見聞きしていたことです。すぐ外を歩けば窓から声が聞こえるほどの近所に多くが住んでいたので、その様子は、彼女たちの格好の「見もの」だったのでしょう。
 
 母親からいつも怒られてばかりの、だれとも交わらない優等生。私が奇妙に見え「何なの、あの子」と彼女たちは反感を抱くようになったのでしょう。話す機会がないので、理解されなかったのです。
 
 仲間はずれのいじめが始まりました。12~14歳くらいの女の子は、気にくわない相手に対して残酷なところがあります。排他的というか、徹底して無視したり、攻撃的になったりするのです。その仕打ちを毎日、いやというほど受けました。
 
 私と通学路を歩いてくれる人がいなくなりました。別のグループの女の子たちが、「○ちゃん、アメあげる。こっち来ない?」とか言って、いとこを私から奪いました。いとこは「向こう側」に付いてしまったのです。みなさんも記憶にあるのではないでしょうか。学校で、どこのグループにも属さずぽつねんといて、行き帰り、一人で行動している子。それが私の姿でした。
 
 一人で歩いていると、遠くからグループで、私をちらりと見やり、ひそひそ話をして、げらげら笑い出します。これが胸をえぐられるようにつらいことでした。
 

■先生から疑われ中学校に失望

 
 私の成績に対し、先生に不審がられたこともありました。ある試験で、だれも答えられない問題を一人クリアしたことがありました。カンニングしたんじゃないかという疑いがかけられ、再試験をするように言われたのです。先生から言われれば受けるよりほかありません。もちろん、試験には私物の持ち込みは禁止です。
 
 解答用紙が配られ、解き始めると、私の机の周りを先生が集中的に見回りするのがわかりました。先生の革靴の音が床を打つのです。集中するのが難しかったのですが、再試験の結果も、当然良いものでした。
 
 この中学校からは今まで、一人も高校に進学したことがなかったのですが、このことで、私は合点しました。優秀な生徒に対し、褒めたり、その能力を伸ばそうとしたりする姿勢が、先生たちのなかに見受けられないのです。むしろ「なんでこんなにできるのか。おかしい」という目で見るのですから。私は、こうした先生たちの質に疑問がわきました。信頼できなかったのです。
 
 この学校にいたままでは、高校受験の競争に勝てないと判断し、母に、「高校にどうしても入りたい。私の能力を認めてくれないからこの学校ではだめ、転校したい」と泣いてお願いしました。少しでも高校に入れるチャンスが広がる学校に行きたい。母は私の依頼にあまり乗り気に見えませんでしたが、私は必死でした。
 
 授業で先生から励ましを得られるわけでもなく、私は学校で孤立し、いじめも耐えがたいものになっていました。家では依然、家事に追われ、勉強どころではありません。学校にも家にも、私には居場所がありませんでした。このままではこの境遇から抜けられないという思いが、私を駆り立てました。
 
 必死の懇願が実り、私は中学2年生になるときに転校しました。高校へ進学する生徒を輩出するその中学校は、家から自転車で片道2時間半、往復5時間の場所にありました。砂利道で、坂も少なからずあります。雨の日も、風の日も、2年間、自転車通学を貫きました。
 
 ここの学校でも当初、嫌なことをたくさん言われました。特に、一緒の机に座っていた女の子。彼女は担任の親戚でした。「あなたの成績がいいのは、食べ物がよかったからね」と何度も言われ、からかわれました。ずいぶん我慢しましたが、あるとき何かが私のなかで爆発したのです。彼女にすかさず言い返し、大声でのけんかになりました。みんなの前で強い自分を見せたことが奏功したのか、以来、いじめに遭うことはなくなりました。
 
 つらいときも多かったのですが、何より、自転車をこいでいるときは一人になれる時間があることにホッとしました。
 

■高校入学試験に失敗

 
 そんな日々のなか、受験に照準を定め、ひたすら勉強にまい進しました。いよいよ中3の夏になり、受験の日が近づきました。受験は夏に行われます。中国は日本と違い、9月から新学期が始まるからです。
 
 私は、この試験に賭けていました。田舎の生活からどうしても脱出したい。15歳の中学生が家から離れて暮らすには、自宅から遠くにある志望校に行くしか考えられなかったのです。「受かれば寮に住める」と、必死でした。日本ではあまたある専門学校は当時の中国にはほとんどなく、ほかの選択肢は閉じられていました。でもこの高校は進学校で、受かるのはかなり難しいのです。私が転校した中学校でも、1学年に数人の合格者がいるかどうか。合格率1%ほどの、狭き門でした。
 
 試験当日の朝。「落ちたらどうしよう」という極度の緊張を感じて家を出ました。ちょうどそのとき、転校前に同級生だった子たちがトラックに乗って試験場へ向かうのを見ました。私は自分の自転車で、足取り重く登校したのを覚えています。何か胸騒ぎがしました。
 
 準備して受験にのぞんだものの、結果は――失敗でした。受験の結果は学校に貼り出されました。合格ラインにたった2点足りず、私は試験に落ちました。
 
 自責の念にかられながら自転車に乗って帰宅の途につきました。夏の太陽が、私の頭を照りつけました。悔しいという言葉では表現できないほどの落胆。この試験に、全人生を賭けたといっていいくらい努力したのですから。だからこそ私にとっては「ただの受験失敗」とはいかなかったのです。失敗したからにはもう生きていかれない。死への道をつくってしまった。そんな思いが頭の中をぐるぐる回りました。
 
 もっともこの年は、誰も合格しませんでした。それくらい難易度が高かったのです。
 
 「よくもまあ、おめおめと帰ってこれたわね」
 
 結果を母に告げたとき、母はこう言いました。真夏だったこともあり、自宅の窓は全開でした。そんなことを気にせず、母は大声で私をそしりました。
 
 「あなたが生きてこの家に帰れるメンツは、どこにある。学校から帰るまでにいくつか、死ぬ方法があるでしょう? 自転車に乗っていたなら、なぜそのまま対向車にぶつからないの。途中にある、ダムに飛び込めばいいじゃない。もう一つ、橋の上から飛び降りることもできた」
 
 矢継ぎ早に5つも6つも、「帰り道に死ねる方法」を母は数え上げます。大声で。
 

■「早く死ねばいい!」

 
 あまりのことに息が止まるくらい動揺しました。すでに大きな自責の念にかられ、申し訳ない思いでいっぱいになって帰宅したところに、どうしてこのような仕打ちを受けねばならないのか。この先、自分はこうして生きなければいけないのかと絶望にとらわれました。
 
 容赦ない母の罵声が私を襲っていたとき、私はお気に入りだった庭の石垣の壁に体を寄せていました。8歳のときによく空を見上げて、「大きな世界に行きたい」と願ったまさにその場所で、数年後にこういう形で追い詰められるとは。
 
 「早く死ねばいい!」そう母は絶叫しました。
 
 私のいた石垣のちょうど向こう側に人が集まる気配がしました。母の声が全開にした窓から残らず流れたため、それを田舎の同級生が聞きつけたのです。近所に住む、かつて私を仲間はずれにした女の子たちでした。5~6人ほどの嘲(あざけ)り笑いが、はじけるように石垣の向こうから聞こえてきました。「英華、高校落ちたんだ。ざまあみろ!」「転校までして失敗した!」「そこまで頭よくなかったんだね」「いい気味」。あはは、あはは。
 
 彼女たちは私が転校した後も当然その中学校に通っていました。遠い中学にまで転校して試験に受からなかった私が怒られているのを知り、愉快だったのでしょう。そのげらげらと笑う同級生から母は私を守るでもなく、むしろ声を張り上げて私を罵倒することでこの女の子たちを助長していたのです。後から知りましたが、彼女たちも同じ試験を受けて、誰一人合格しなかったのです。あんたたちも受かってないでしょ、と母ならば言ってくれてよかった。いや、言ってほしかった。その逆で、母が私に死ねとののしっているから、彼女たちもエスカレートしたのです。
 
 「大きな世界に行く」ために道を切り開こうとしていた私が、彼女たちから見れば、一種、許せなかったのでしょう。特に女性ならば、進学しなければすぐに結婚して、地元で変わらぬ生活を生きていくより自分の運命はないのです。私はそうなりたくなかった。勉強して、もっと知識を吸収して賢くなって、外の世界に行きたいと真剣でした。彼女らはそういう私の姿勢とは相いれず、なに偉そうにしているのかしら、結局、私たちと同じように試験に受からなかったじゃない、と思ったに違いありません。
 
 私の目前にはののしる母。石垣の向こうには、さげすむ同級生。この家には戻りたくないけど、外にも行かれない。恥ずかしくて情けなくて、彼女たちの顔を見ることができない。
 
 自分の力が足りずに落ちた。受かればこんなことにならなかった――。ほとほと自分を責めました。私は、家に帰れる場所がない。外にも出られないから、上の方、そう、空に行くしかない。
 
 死ぬしかないと思ったのです。死ぬのによい場所は、あそこしかない。さんざんののしられ、笑われた後、私はふらふらと家を出ました。
読者からのコメント
60歳代男性
幼い頃からの虐げられた環境で育ち、それに負ける事なくじっと耐え忍んでその体験が不屈の精神を作りより強い人間に。中学時代の周りの人、友達、先生までもいじめに走る。高校受験に失敗し、母親の「死ねばいい」の罵声。「大きな世界に行きたい」のパワースポットへ。 へこたれたらあかんと応援します。
60歳代男性
馬さんの中学時代と高校受験は、厳しいものだったんですね。革命後の新中国とは思えないですね。一緒に遊べない子供を仲間外れにしていじめるのは、日本でもありますが、教師まで優秀な生徒を白い目で見るなんて、酷い教育者ですね。周囲の圧力をはねのけて勉強にいそしんだ馬さんが、高校受験に失敗したからと言って、「死んでしまえ」と叱責する母親やそれを見て嘲笑う近所の子供達は鬼みたいな人ですね。馬さんの涙と悔しさが伝わって来ますよ。
30歳代男性
今回も、ドキドキの展開を、楽しく拝見させて頂きました。とは言っても、母親から物凄い言葉の嵐を浴びるという、壮絶な過去のエピソード。さすがにこれには大きく衝撃を受けました。自分の親、まして一番甘えたい対象である母親から、このような罵声を浴びるというのは、もし自分がその立場であれば、精神を穏やかに保つことは難しいのではという風にも感じました。 ですが、このような体験談を読む事で、自分もそうだったな、頑張ればこうなれるんだと、希望を持つ事が出来たり、自分は恵まれていると感じることが出来たりと、多くの気付きを得ることも出来ますね。
Mattさん、50歳代男性
今回は胸が詰まるようなエピソードばかりで、書くのに勇気とエネルギーが必要だったことがヒシと伝わって来ました。でも「勇気とエネルギー」をふり絞って執筆された成果は間違いなく多くの読者にも伝わっています。 これまでの連載の流れでココはきっと避けて通れない重要なターニングポイントと察します。回数を追う度に文章にも益々磨きがかかってきているようで、より大きな期待と共に次回が楽しみになりました!
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