少女の大冒険 中国縦断で日本との縁つくる

2016年10月21日
メイン画像
 日本に行きたいと思うようになったきっかけは、いくつかあります。まず私の生まれ故郷である大連という街にありますし、日本と貿易をしていた曽祖父の武勇伝を聞いたこともありました。日本の目覚ましい経済発展にも興味がわきました。日本への留学に私をかき立てた直接のきっかけは、大学に入ってから行った広州でした。
 
◇     ◇
 
 幼少のころから母との葛藤を抱えていたことや、大学受験直前に重い循環器系の病気にかかったことがあり、不安は大きかったのですが、高校の恩師の助けも得て、外国語教育では最難関という大学にチャレンジしたのです。中国が改革開放路線に転換して間もない85年、私は大連外国語学院という名門大学に受かることができました。66年から約10年続いた文化大革命の時代、国中の大学は実質、入学を停止していました。改革開放路線になり、大学も通常試験を再開。とはいえ、よい大学は数が少なく、競争が激しかったのは以前書いたとおりです。私は日本語学部を選びました。
 
 1学年100名ほどの人数で、私は運良く20人弱の師範のクラスに入ることができました。いわば選抜クラスで、ここに在籍する学生には将来、教育に携わる仕事が確約されていました(「分配」といいます)。主に大学の先生になることが国から約束されていたわけです。
 
 だれもが優秀で、よく勉強しました。私ももちろん、勉学に打ち込みました。学費はかからなかったものの、寮費など生活費は必要でした。その分は母から前借りしている状態でした。卒業後の仕事は約束されていたため、働き始めたらすぐに返そうと思っていたのですが、矢のように返金を催促されるのは高校時代とちっとも変わりませんでした。
 
 大学に受かったとき、私のうちは近所で有名になりました。国中に名前を知られる難関大学に入った娘さんがいるうちだと、母は近所の人たちに囲まれ、祝福されたそうです。いったい馬家ではどんな教育をしたのかなどの質問にあい、ずいぶん鼻が高かったと聞きました。ですが母のしたことは、努力して成功した私に、お祝いの言葉でなく請求書を投げたことだったのです。
 
 私が大学で使うため準備した日用品――タオルやシーツ、枕、せっけん、洗顔用のたらいなどです――の一つひとつに「1角」だの「1元」だの値段をびっしり書き込んだ明細を見せ「あなたね、学校卒業したらお金をすぐ返すのよ」と言ったのです。将来、仕事が約束されているのを知りながら、おめでとうの言葉もなく明細をよこす母をどうしても理解できず、ただただ悲しさとむなしさが胸にあふれました。外では受かってよかったねと温かく言われるのに、一歩うちに入ると返せ返せと、冷たい洞窟に入り込んでしまった気持ちで、たまったものではありませんでした。
 
 母の「金返せ」のプレッシャーに耐えられなくなった私は、勉強しながら仕事をして、完全に自立しようともくろみました。夏休みに実家に帰りたくなかったのも背中を押しました。
 
 「アルバイト」という言葉は当時、中国語にありませんでした。仕事は国から与えられるもので、「自ら探す」ものではないのは道理です。学生がバイトする、そんなことはだれも考えない時代でした。私は違いました。お給料をもらうようになるまでお金のことで母になにか言われるのはどうしても耐えられない。自立するためひどく仕事を必要としていました。
 
 1年上の先輩に、広州出身の人がいました。大連外国語学院には国内各地から学生が来ていたのです。「南に行けば仕事があるかも」。そうひらめいて、大学1年生が終わった後の夏休み、その先輩に「夏休みに帰省するなら一緒に行かせてもらえませんか」と思い切って聞いてみました。広州なんて外国のようで、どう行くか知らなかったのです。かまわないという返答で、不安は軽減されました。そして、渋る母を説得し、なんとか旅費を前借りしました。もちろん、往路分だけです。
 

■台風で船旅断念、列車で縦断

 
 今でこそ飛行機や高速鉄道、自家用車など移動手段はいろいろあります。ですが86年当時はまだ、衣食住は生まれた場所でことたりました。旅行も一般的ではありませんでした。遠方に行くという用事は、帰省以外、特段生じなかったのです。
 
 中国の地図を見ていただければわかりますが、船なら大連から広州は、中国東岸を半円描いて南下することになります。広州は香港のすぐ近く。北部出身の私からすると、なんともエキゾチックな南国でした。大連からの距離たるや、北海道の最北端から鹿児島の最南端までの距離よりあるでしょう。何という大冒険、仕事を探しに行くには遠すぎるほど遠い!
 
 南に仕事があると思い込んだ私は、最初は心配で仕方がなかったのに、行くと決めたらすぐ行動。飛行機など最初から選択肢にありません。その先輩は、船で帰省する予定だというので、数日後には、大連港から、船上の人になっていました。
 
 ところがなんと台風に遭遇してしまい、山東半島をまわったところ、青島で下船せざるをえませんでした。のんびり船で行こうという計画は、鈍行の機関車で気の遠くなるような2600キロ以上の陸路経由に転換を余儀なくされたのです。広州までの長距離列車が頻繁に走っているはずもなく、1日1本ほどしかないといった不便さでした。しかも席の予約もないのです。
 
 青島で乗った列車はうんざりするような混雑ぶり。7月中旬で暑いのですが、冷房などありません。通路という通路に人が立っていて、床に座ることもできません。通路は文字通りぎゅうぎゅう詰めでまあ歩けたものではありません。トイレに行くのにも人をかき分けて(あるいは踏んで)行くしかないのです。寝たくても横になれませんから、うとうとするだけ。
 
 車内にはありとあらゆるものが乗っていました。大人、子供、赤ん坊、荷物、にわとりやうさぎ……。ごとごという列車の音や赤ん坊の泣き声、食べ物や汗や家畜のにおいのまざった臭気、そんなもので満ちていました。広い大陸で手段はこの列車のみ。人々は料金の高い席を敬遠するので、いきおいだれもがここにめがけて乗ってくることになります。こんな状態で長時間過ごすのは苦痛でした。
 
 停車駅では、その土地ならではの味覚を売っていました。日本の駅弁とはずいぶん違って、主に農作物です。ゆでたピーナツ、なつめなどの果物、なかにはちまきなどもありました。もちろん飲料水も。売り子たちが停車時間にここぞとばかり売ろうと待ち構えています。買う方も、食いはぐれないよう殺到します。大混雑ですから昇降に時間がかかり、いったん停車すると半時間は運行開始になりません。食べたい気持ちはありましたが、残念なことに、トイレの回数が増えるのを恐れてあまり多くは食べませんでした……。
 
 青島から発車して済南~鄭州~武昌~長沙と中部にルートを取り、数日かかって広州に着きました。南下するにつれ、食べ物が辛くなっていきます。歴史的に有名な都市に止まるので、とてもワクワクしました。
 
 でも横になれないどころか、ほとんど座ることもできず、立ちっぱなしだった列車の旅で、本当に疲弊しました。自宅へ急ぐ先輩とは駅で別れ、教えてもらった安ホテルにチェックインするなり、倒れ込んで寝てしまいました。
 

■パンダのいる動物園

 
 若いとは恐ろしいものです。今まで学校という世界に住み、受験勉強ばかりで、旅行はおろか、あまり遠出もしたことがありませんでした。それなのに大連から遠く離れ、まるで海外へ飛び出るような大胆な行動に出たのです。広州の人々は小柄で、大柄の人が多い大連と人種が違うように見えました。服装も違っていました。私は異邦人になった気分でした。実際、ここで話される言葉は広東語。私は北京語を話すので、地元の人たちとコミュニケーションを取るのが難しかったです。
 
 ぐずぐずしている時間はありません。とはいえ「アルバイト」という概念のない国で、世間もそう知らない学生がどうやって仕事を探せばいいのでしょう? 知り合いもいない、初めて訪れた巨大な街で途方に暮れました。漠然と旅行会社に職があるかなと思っていたのですが、旅行会社がどこにあるかわからない。それでも宿泊するだけでお金は出ていきます。部屋にいるわけにはいかない、まずは外に行かねば。
 
 「公園に行こう」。まったくの直感でなぜそう思ったのか自分の思考回路がわからないのですが、公園に行けば仕事がありそうな気がしました。越秀公園などの有名な公園があるので回っているうちに、動物園にも行こうと足を伸ばしました。広州動物園という有名なところですから、知っている方もいるかもしれません。
 
 園内を歩いているうち、大きなお土産店を見つけました。人気があるようで、日本人の団体客もたくさんいました。そう、ここはパンダがいるので、多くの海外客が訪れる場所だったのです。「ここだ!」 ピンときて、迷わず店内に入り、店員に話しかけました。「すみません。仕事を探しています。店長はいらっしゃいますか」。店員は困惑した顔をして「どこの方? 何の仕事を探しているって?」と聞きました。「私は大連外国語学院の学生です」と告げたら破顔して「そうですか。呼んでくるから、お待ちください」。難関で知られる母校の威光は、ここまでとどろいていたわけです。
 
 奥から出てきた店長は50代の男性でした。「夏休みの間、ここで仕事をしたいのです。日本人も多いようですし、日本語が話せる人は要りませんか」と単刀直入に言いました。店長は「ここではだれも話せないんです。日本語を話せる人をちょうど探していたんですよ! 大連外国語学院から来ているの? あんな北からどうやってここまで来たの? 今どこにいるの?」と興味津々で、にこにこしながら矢継ぎ早に質問します。「列車で来ました。数日かかって……」と、会話が弾みました(店長は桂林語を話していました。私とは北京語のちゃんぽんで、なんとか意思疎通ができました)。「今日から仕事、始めていいですよ」。彼の鶴の一声で、めでたく採用となりました。
 

■名刺くれた日本人観光客

 
 なんという幸運。店長の計らいで、その場で日本人対応の店員になり、お土産を売ることになったのです。給料は出来高制で、売った分の3%をいただくことになりました。十数人の店員を抱える大きなお店で台所もあり、まかないで3食食べられました。動物園には湖があり景色もいい。南の人たちは親切で、本当に楽しく働くことができました。
 
 日本人客はほとんどパンダが目当て。見た後はとても喜んで、パンダをあしらったお土産が飛ぶように売れました。そのお店はほかにも、質のいいシルクなどの雑貨や、掛け軸や絵画といった美術品を売っていました。特に人気があったのは、シルクのじゅうたんです。今はけっこう値上がりしていますが、当時、日本人からはとても安価に見えたのでしょう。お土産のほかこういう商品もとても引きがよく、高額でもよく売れました。私は片言でしたが、日本語が話せる唯一の店員として、忙しく働きました。
 
 日本語ができるというので、多くの日本人観光客と話す機会に恵まれました。あるとき、年配の日本人男性から「日本語、うまいね。どこで習ったの?」と話しかけられました。大連外国語学院の日本語学部で勉強している学生であること、このお店で夏休みに“バイト”していることを話しました。すると彼は「大連からこんな遠くに学費を稼ぎに来ているの、よく頑張っていますね。偉いね」と言うのです。そして名刺をくださいました。見ると、よく知られた大会社が書かれてありました。肩書に「会長」とありましたが、私はその意味を知りませんでした。「何とかっていう会の長なんだろう」と思いました。
 
 この男性には秘書らしき人が付いていました。会長の意味を聞くと「社長の上の立場にいる人です」と言うではありませんか。その人が言うには「あなた、先ほどは会長が名刺をあげていましたね。大事にして、日本に来たら、きっと訪ねてください。会長はあなたが気に入ったのだと思いますよ。うちの会社でぜひ働いてくださいね。」
 
 この会長さんからのように、束にすると手でつかめないほど、ほかのいろいろな人たちからも名刺をいただきました。日本人観光客と日々接していると、その優しさがよく伝わりました。私が勉強しながら働いているとわかると、偉いとか、頑張っているねとか、惜しみなく褒めてくださるのです。
 
 改革開放路線が本格化しようとしていた時期に中国に来た人たちには、単に観光というのではなく、見識を広めたり視察に来たり、中国を理解しようとする意欲ある人々が多かったように思います。店員という立場でしたが、学生に対してその頑張りを素直に認めてくれるこうした人々の温かい言葉に、感激しました。大連では、日本語を勉強していたのにもかかわらず、日本を身近に感じていませんでした。この広州の動物園で、私は日本という国に対して初めて、日本っていいなあと、親しみを感じたのです。それが「行ってみたい」という気持ちに変わるのに、時間はかかりませんでした。
 
◇     ◇
  
 お土産屋さんの店長が雇ってくれなければ、私の広州行きはまったく違う経験になったはずです。そう思うと、私の人生は、必要なときに、まるで天からの贈り物のようにだれかが現れて助けてくれる、そうしたことの連続でした。でもただ座って助けを待っていたわけではありません。仕事を求め、必死で広州まで行き、街を歩き回ったから店長のような人に出会えたのです。
 
 仕事の見つかるあてもなく、やみくもに広州まで行ってしまったことを振り返ると、その乱暴なプランに自分で自分を笑いたくなります。でも細かいところまで計画を練りすぎていたら、実現不能に見えたはずで、怖くて行動など起こせなかったとも思います。
 
 私には母からの完全自立という重いテーマがありました。呪縛から逃げ、自分の力で生きていくためには、考えに考えを重ね、決断するしかなかったのです。
 
 計画が穴だらけでも、拙速だったとしても、あるかなえたい目的のため、自分で行動を起こす。その結果、困ったときにだれかが現れ、思いも寄らない形で解決への道がひらける。その連続が前進するということで、人生の歩みにほかなりません。行動から人生がつくられるのです。
読者からのコメント
30歳代女性
今回も、素敵なお話をありがとうございました。 お母様からの厳しい言葉や態度、お辛かったですね。 ですが、自立しようと思い、行動に移されたからこそできた経験というものもある事と思います。貪欲に、自ら道を切り開こうという意識も素晴らしいです。 また、次回のお話も楽しみにしています。
50歳代女性
馬さんの毎回、掲載を楽しんでいます。 程度の差はありますが、幼少時驚くほど似た経験をしていることに親近感を感じ、食い入るように読んでしまいます。 馬さんの忍耐と努力と行動が、あらゆる幸運を引き寄せ、人生を切り開いてこられたこと、今後の展開も気になり、益々楽しみです。
〓畑さん、60歳代男性
名門の大連外大のエリートクラスに入れたのは努力の成果 ですね。母親からの自立を目指してアルバイトを求めて 遠い広州まで行き、駈けずり回って広州の動物園で働く 事が出来た。そこでの日本人観光客(ビジネス目的)との 出会いが運命ですね! まさに文革開放の時、がむしゃらに行動する態度に心を 打たれます。その行動力に”時代の風”が人生を変える 追い風になったと考えます。
堺谷光孝さん、60歳代男性
広州での日本人観光客との出会いは、運命的でしたね。日本に興味を持って日本語を学んでいた馬さんへの天からのプレゼントだったんですね。そんな健気な学生がいたら、日本人観光客なら誰でも応援したくなるかも。それにしても、大連から広州まで、広大な中国大陸をこみあう列車で時間 をかけて縦断するとは、凄い根性でがんばり屋の少女だったんですね。日本に関心を持ってもらって、ありがとうございました。心から感謝します。
三浦 美充さん、60歳代男性
私が最初に中国に行ったのは15年前、広州でした、圧倒的なエネルギーに感動し、なぜか懐かしさに似た感情を覚えたものです、現在お互いの国同士はぎくしゃくしてますが、必ずお互い思いやりをもって行き来できるようになると信じています。
Copyright © 東京エレベーター All Rights Reserved.